kys37の御仏めぐり
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二上山 眞光院

 ・ 福岡県糸島市二丈福井 395-1
お寺やお堂の情報,歴史(参考ホームベージ等)

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 真言宗大覚寺派のお寺で、大正年間に福岡県篠栗に開創、その後福岡市簀子町(現中央区大手門)に移転
 し、さらに平成元年に現在地に移転した。
 ご本尊は観世音菩薩の変化身で「大随求菩薩」というめずらしい仏様で、あらゆる人々の求めに随いその
 願いを叶えてくれる有り難い仏様である。
 境内には、怪談「お綱さんの祟り」で有名なお綱さんの祟りを鎮めるために祀られた「お綱堂」がある。
 怪談「お綱さんの祟り」とは次のような話である。

二上山 眞光院 お綱堂

 『黒田藩主忠之公は、参勤交代帰途大阪で出会った遊女に一目ぼれして福岡まで連れ帰った。しかし、周囲の反対で手元に置けず、
 近待の明石四郎左衛門に下げ渡したので、正妻のお綱さんは筥崎の下屋敷に別居した。ところが、四郎左衛門も次第にこの遊女に惹
 かれ始め、お綱さんをないがしろにし、妻子は暮らしも困窮するようになった。寛永7年(1630年)3月、娘の節句に招いても来ない
 夫に怒りと嫉妬を爆発させ逆上したお綱さんは、薙刀で二人の子を殺し、その首を腰に吊るして本宅に向かい、遊女を道連れに殺害
 、さらに夫も殺そうと城内に向かう途中、夫のお抱え浪人に斬られて、城門まで来ながら力尽きて息絶えた。その後、夫の四郎左衛
 門も狂い死にしたという。お綱さんが死んだ門の周辺から何かを持ち帰った人には祟りがあり、「お綱門」といって恐れられた。』


 大正9年(1920年)簀子町にあった長宮院の敷地内に大乗寺が移転してきた。その寺域にお綱さんを祭る「お綱堂」が建立された。
 昭和20年(1945年)福岡大空襲で「お綱堂」は残ったが、長宮院,大乗寺ともに焼失し廃寺となった。地元の「お綱さんは箕子町で
 供養する」との強い意向を受け、長宮院と同じ町内の真言寺院で戦後の焼け野原の中いち早くお寺を建て直した眞光院が「お綱堂」
 を祀ることになった。糸島市への移転に際し箕子町に打診したところ、現在の箕子町では十分な供養ができないとの判断から「お綱
 堂」も眞光院と供に現在地に移転し、一緒に長宮院が持つ筑前三十三箇所観音霊場9番札所も移ってきた。

備考
 ・長宮院
  正式には「簀石山 城円寺」と号し、福岡城のお堀の北側で城の鬼門方角(現在は福岡家庭裁判所が建っている)にあったお寺。
  長宮院があった土地は昔上級藩士の居宅であったが、入居した武士は次々に家が絶えたりさまざまな怪異な現象が起きる凶宅で、
  住む人もなく荒れ果てていた。寛永年中(1624-1644)肥後国から来た清識という真言僧が、その土地に寺を立てたいと藩主忠之
  公に願い出、許されて観音堂を建て自らも庵を結んで住むようになった。こうして凶宅は仏法の霊地に変わったという。その後元
  禄10年(1697年)に住僧の舜覚和尚により観音堂は建て替えられた。昭和20年(1945年)福岡大空襲で焼失し廃寺となった。
  本尊の観音像は、弘法大師作で脇立観音三十三体と伝えられる。これが筑前国中観音霊場の本尊であったが、福岡大空襲でお寺と
  ともに焼失したと思われる。

堂 宇 等 画 像 本  尊 ・ 霊 場 等 ご朱印
二上山 眞光院 本尊 : 大随求菩薩(本堂)

備考

霊場九州八十八箇所百八霊場106番札所

    筑前国中三十三箇所観音霊場 9番札所
二上山 眞光院
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