kys37の御仏めぐり
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大堂山 報光寺 跡

 ・ 福岡県福岡市博多区奈良屋町 4-22
お寺やお堂の情報,歴史(参考ホームベージ等)

 承応3年(1654年)に古渓水(備考参照)の話を伝え聞いた福岡藩2代藩主 黒田忠之公が博多少林寺2世の成誉的道上人に大同庵の跡
 地を賜り、建立させたのが報光寺であると伝えられる。経緯から、開基が黒田忠之公、開山は成誉的道上人。また、古渓和尚にちな
 んで大堂山 古渓寺とも言った。
 宝暦年間(1751〜1763年)の初め、報光寺2世の重誉上人の時代に「神呪水の印」を結んだ古渓和尚の像を作って安置したと伝えら
 れる。
 文化8年(1811年)古渓井戸の石組みが久しく壊れたままになっていたのを、博多の商人 西頭徳蔵氏の喜捨で修復、そして妙楽寺28
 世の竺峰和尚が古渓井戸の由来を記した碑文をしたためた「古渓水」の石碑を傍らに建立した。
 明治40年(1907年)頃に古渓井戸は報光寺内に移された。
 昭和20年(1945年)福岡大空襲で報光寺,古渓井戸共に焼失し廃寺となった。
 平成10年(1998年)古渓和尚の四百年忌と戦後55年を顕彰して、妙楽寺の渡辺住職の奔走で古渓井戸が再興されて整備さた。

備考
 ・古渓水
  京都紫野大徳寺117世住職の古渓和尚は、豊臣秀吉や千利休と親しい間柄にあった。ある時、千利休は大徳寺に山門を寄進します
  が、その楼上に自分の木造を安置したのでした。それとも知らずに山門をくぐった秀吉が、後にこの事を知り激怒、千利休に切腹
  を命じるとともに大徳寺の打ち壊しを命じた。古渓和尚は身を挺してこれを中止させたが、流罪になり筑前領主小早川隆景にお預
  けの身となった。
  天正16年(1588年)古渓和尚が博多に来た当初は妙楽寺に寄寓していたが、博多の豪商神屋宗湛・島井宗室等の奔走で大同庵が建
  立され、古渓和尚は天正18年(1590年)赦免されて京に帰るまでこの庵に住んだ。
  博多の人は和尚を「古渓さん」と慕い、博多は和尚にとっては住み心地良い離れがたい地となっていた。京へ帰る時、古渓和尚は
  せめてものご恩返しにと、庵の井戸に向かって両手の指で「水印」を結び、火除けの祈りを込めた。あるいは、錫上を突き立てた
  ところ清水がわき出したとも伝えられている。
  古渓和尚が祈りを込めた水は「古渓水」と呼ばれ、家に注ぐと火事がおきないといい、またその後、付近に火事があった時には必
  ず、黒衣の僧が忽然と火の中に現れてこれを消してしまうのだと言い伝えられた。
  大同庵は、古渓和尚が帰京後は妙楽寺の塔頭になっていたが、やがて廃寺となった。

堂 宇 等 画 像 本  尊 ・ 霊 場 等 ご朱印
大堂山 報光寺 跡 本尊 : 不明

備考 : 霊場本尊の観音像は行方不明

霊場 : (石城三十三箇所観音霊場32番札所)
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