お寺やお堂の情報,歴史(参考ホームベージ等)
心月禅師の開山で、元久3年(1206年)開創と伝えられる。(伝承については備考参照)博多聖福寺の末寺であったと伝えられるが
、明治5年(1872年)に廃寺となった。
江戸時代文化9年(1811年)の古地図には萱堂町の中に香西寺と地蔵の書入れがあり、場所を確認することができる。また、町名萱
堂の由来は、昔ここに萱堂という仏堂があったからと言われる。
光西寺跡には、1メートルほどの地蔵尊(大宰府戒壇院の雲応比丘寄贈)が立ち、その背後に高さ5,60センチほどの石造のお社が石
の台座の上に載っている。この小さなお社の中に光西寺の本尊であった銅造の魚腹地蔵尊が祀られていると思われる。
備考
・魚腹地蔵尊
昔、博多にお地蔵さまを深く信仰する女がいた。死に臨み、童子丸という幼い息子を傍らに呼び、一枚の鏡を取り出して「母が恋
しい時はこの鏡を見なさい。大きくなったら仏門に入り精進しなさい。それが母への親孝行です」と遺言したという。長じて六郎
知景となった童子丸は、鏡を見ては
「かたみにはよしなかりれり俤を見るに涙のますかがみかな」
と歌を詠み母を懐かしんだ。さらに、この鏡を二寸四分(約7cm)の地蔵菩薩に鋳直して肌身離さず身につけ、いつの日かお堂を
建て、このお地蔵様を祀りたいと祈願していた。
ある時、鎌倉将軍が召上げや売買で失った所領を、元の地主や地頭に返却するという徳政の宣下があり、知景もさっそく証拠とな
る古文書を携えて鎌倉に訴え出た。そして二,三代前から失っていた所領を安堵してもらうことができた。喜んで帰国の途中、瀬
戸内海の大三島神社に参詣に行く船中で、戯れにふなべりから海中に手を入れたところ大きな魚に食いつかれ、驚いて体を仰け反
らせた弾みに、お地蔵様を入れた大切なお守り袋を海に落としてしまった。知景は俯仰して嘆くが詮方なく、安芸の宮島に詣でて
「尊像を吾に返し給え」と一心に祈ったという。その夜、不思議な夢を見た。翌日、長門の赤間関で同船の人々に酒を勧めようと
、肴に買った鮫の腹から海中に落とした守り袋が出てきた。厳島明神様の霊夢の応えと感涙に咽び喜んだ。博多に帰った知景は一
寺を建立、本尊にこの魚腹から出た地蔵尊を安置したので、これを魚腹地蔵と言うようになった。山号は、地名にちなんで萱堂山
、寺名は地蔵尊の慈光が遍く西海を照らすように光西寺としたという。
このようにして、魚腹地蔵尊の謂れが次第に人々の間に広まり、殊に船乗りたちの間で評判になり、この寺の「海路無難」の護符
を受ける人が多くなったといわれる。
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